第四話 黒の交差点
悲鳴と異臭が、瞬く間に広がっていた。
エンジンから火を噴き、炎に呑まれる車から慌てて転がり出た男に、一翔はすかさず手を伸ばす。
「怪我は？！ 歩けるか？！」
「あ、ああ、助けてくれ、助けてくれぇっ！」
一翔の腕に縋り付いて叫ぶ男。掴まれた腕に、男の爪が食い込む。
鋭い痛みに眉をひそめた刹那、再度車が小爆発を起こす。
「うわぁぁっ！」
悲鳴を上げた男もろとも、一翔は後ろに倒れ込んだ。咄嗟に閉じていた瞳を開くと、黒煙の立ち上る、ビルに囲まれた空が見えた。
遅れて、背中に鈍痛が広がる。
「おっちゃん、立って！ あっちあっち！」
高い声に導かれるように、男はふらつきながらも立ち上がって駆けていく。
一翔は小さな呻きを漏らしながら、体を起こした。
すぐそばではまだ燃え盛る車がある。ルームミラーにぶら下がっていたぬいぐるみと藍色のお守りが炎に焼かれていた。
膝に手を突き、立ち上がると一翔はぐるりと周囲を見回す。
大型トラックが横転し、いくつもの乗用車がひしゃげ、果ては炎を噴いている。道路をふさがれた交差点では、主のいない車がクラクションを盛大に響かせ、悲鳴と交錯していた。
多重事故。しかも規模としては、かなり大きい。
「早坂さん、ぼーっとしない！」
りりあの鋭い声に、一翔は慌てて頷いた。
消防が来るまでの間に、出来る限りの人命救助はしなくてはならない。
染みついた義務感だ。
事故発生から、まだ数分と経っていない。
消防車も救急車も、到着には数分かかるだろう。加えてこのパニック状態ではもっと近づきづらいはずだ。
付近にいた警官が必死に声を張り上げ、人々を誘導しているがそれも効果としては薄い。
集団パニック特有の厄介な点だ。
何より、一翔自身もどう立ち回ればいいのか、迷走していた。
片やりりあはてきぱきと避難を指示している。
徹も同様だ。海は早々に現場から避難している人々の方へ駆けて行った。
一翔だけがどうしていいか、分からず困惑している。
（俺に出来ることは……）
焦りばかりが先行する。周囲を見回せば、歩ける人の姿はほとんどない。
手を借りて現場を離れる人が数名。
残りは……。
「早坂さん！ 手を貸してください！」
ぐいっと袖を引かれて、一翔は我に返った。
思わぬりりあの力に面喰らいながら、向かった先は右側から車に突っ込まれた軽自動車。
扉がひしゃげて、中にいるドライバーの男性はエアバックの上で動かない。
「秋田、あの人は……」
「何言ってんですか、まだ生きてますよ！ 息してます！」
りりあの言葉に、一翔は懐疑的な思いを抱きながら再度男性を確認する。
……確かに、微かに動いているように見えた。意識はないが、呼吸はしている。
りりあの観察眼が鋭い事を、こんな場面で知った。
「早坂さん、向こう側から引っ張り出してください。私、状態確認しながら指示出しますから！」
「分かった」
頷き、素早く助手席側へ回り込む。幸いと発火はしていないが、いつ他から引火するかもわからない。
時間との勝負だった。
助手席側のエアバックをフロントガラス側へ押し付けつつ、意識のない男性へ手を伸ばす。
左体側の負傷は、特にないように見える。
「秋田、引っ張り出すぞ」
「オッケーです！ 右手、ガラスで怪我してるみたいです。結構深そうですから気を付けてください！」
「了解。……今、助けるからな」
まだ温かい男性の肩に手を回し、一翔は腕に力を込めた。
◇◇◇
りりあと二人掛かりで意識のない男性を安全な場所まで搬送したところで、一翔は大きく息を吐き出した。
消防車や救急車も続々と到着し始めている。
あとは集束へ向かうだけだろう。そう胸を撫で下ろしていた一翔の腕が、不意に強く引かれた。
「何を安心した顔してるんですか。今度は海先生のお手伝いですよ！」
「手伝うって……」
ちらりと視線を寄越すと、海は大量の負傷者に対して、慌ただしく駆けまわっていた。
ここは、どちらかと言えば海の独壇場だろう。そのスキルが最大限生かされる場面だ。
「他にもできる事っていっぱいあるんですよ」
ふうっとため息を吐いて、りりあは戸惑う一翔の腕を引いた。
抵抗する気力もない一翔は、導かれるまま。
「海先生！ 手伝いに来ましたよ！」
振り返った海のポニーテールが、ひらりと揺れる。邪魔だからと縛ったようだ。
軽く目を見開き、海はすぐさま深く頷いた。
「救急隊へ引き渡す手伝いをしてもらえると助かる」
「りょーかいですっ。優先順位とかは？」
「細かいところがあるが……ひとまず赤タグから頼む」
りりあは即座に頷いて、状況の呑み込めない一翔に視線を寄越した。
「だそうです。早坂さん、赤タグって分かります？」
「トリアージタグ、ってやつか？」
「そうだ。赤色と黒のラベルだけが残っているのが、赤タグだ。頼んだ、早坂」
真っ直ぐな曇りのない視線を向けた海。
それは医者としての目だ。何故か背筋がちりちりと、かゆくなる。
くるりとポニーテールを翻した海は、再び応急手当てに走る。
海の白い肌にも、誰ともわからない血が付着していた。
それでもその姿は、清々しいもので。自分の使命を、確実に遂行している輝きを放っている。
海のそんな姿に、一翔は眩しさを覚えずには、居られなかった。
◇◇◇
報道カメラが忙しなく現状を撮影し、現場記者がマイク片手に声を張り上げる光景。
消防車が放水をほぼ完了させ、規制線を警察が張り終えた頃、最後の救急車が現場から出て行った。
一翔はりりあと共に、軽症患者搬送用のバス前で立っていた。
最後の救急車を見送る海を待っていたのだ。
早足で戻ってくる海に、一翔が軽く手を上げる。
「すまない。待たせたな」
「いえ、ドライバーの方も、ドクターが乗っててくれた方が助かりますと言ってましたし」
「そうか」
短く答えて、海は視線で乗車を促した。
それに従い、りりあと共に一翔もバスの中へ。
軽症者と言っても、無傷というわけではない。捻挫や裂傷、火傷の患者が十数名ほど。
直接事故に巻き込まれたわけではなく、逃げる際に負傷した人が大半だ。
後方座席では、出来る手当を徹がてきぱきとこなしている。
手法も何も分からない一翔は、それを窺いつつも空席に腰を下ろす。
りりあがすとんと一翔の隣に腰を下ろして、深く息を吐き出した。
緊張していたのだろう。思わず笑みを零していると不意に髪が引っ張られた。
「……ん？」
顔を上げると、座席の上に半分だけ顔を出した、女の子がいた。
額に絆創膏を張り付けたまだ小学生くらいの女の子。
目を瞬かせていると、にこっと笑顔が向けられる。
「これあげるね！」
小さな手が、座席の上から伸ばされる。意図が汲めず茫然と見上げていた一翔の目の前で、小さな掌が開かれた。
ぽろりと零れ落ちたのは、小さな袋。
慌てて受け止めると、個包装された黄色の飴玉。黄色い果実の絵とレモン味というポップな字が描かれていた。
女の子を見上げると、にこにこと嬉しそうな笑顔が見える。
「たすけてくれて、ありがと」
「え……」
ぱっと女の子の頭が隠れる。きゃっきゃと高い声が背後から聞こえてきた。
予想外の事態に茫然としていると、くすっとりりあの小さな笑いが一翔の鼓膜を叩く。
「良かったですね、早坂さん」
「別に、俺はお礼が欲しかったわけじゃ……」
慌てて反論すると、りりあは笑顔で首を振る。
「分かってますよ、そんなの。……でも、お礼言ってくれるのって、嬉しいじゃないですか。自分の事、認めてもらえたみたいで」
りりあの言葉に、手のひらに残された感謝の飴玉へ視線を落とす。
背後の女の子が生きているからこそ、届けられたものだ。
一翔だけのおかげではないが、それでも、一翔の事を見ていてくれた女の子だからこそ、感謝してくれた。
それは……素直に、嬉しいと思えるかもしれない。
「……そうだな」
思わず口元が綻ぶ。りりあは満足そうに頷いて、天井を見上げた。
「ほんと、今日は何だか大変だったなぁ。海先生の誕生日祝うどころじゃなくなっちゃいましたよ、もう」
「まったくだな」
苦笑する。りりあも肩をすくめて、それから欠伸を一つ。
「私、少し寝ますね。着いたら起こしてくださーい」
「ああ、分かった」
こくんと頷くと、りりあはそのまますぐに眠りについた。いつでもどこでも寝られるのは普段の生活の賜物だろう。
誇れることではないかもしれないが、こういう場合体力回復は出来るうちにするに限る。
動き出した車内から見える外の光景。
少し前まで自分たちが忙しなく駆けまわっていた場所が、とても遠く感じた。
ここは、海にとっての戦場だった。
医療の現場は病院以外でも同じだけの事を求められる。厳しい職だとつくづく思う。
そんな場所に、軍の中では一番近い機動救護隊。
今の自分の居場所で、ヘリを操縦する以外に何が出来るのだろう。
それだけで、良いのだろうか。
一翔の胸中に、言葉に出来ない焦燥感に似た何かが滲みだしていた。